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我と汝

 今年の9月にイタリアに視察に行った時に、とあるレストランでウェイターの男性に料理やワインを進められた時に感じたことがあります。レストランは世界遺産にもなっている、チンクエテッレという小さな村を見下ろす丘にあり、様々な国からの観光客でにぎわっていました。ウェイターの男性はイタリア人ではなく、確かアルバニア人だったと思います。ロケーションだけでもお金が取れそうなレストランでかつイタリア人以外のウェイター、一緒に行ったお客様には「観光地ですので、味はそこそこかもしれません」と期待しすぎないようにお伝えしました。

 メニューにはある程度値が張る高級料理からシンプルな地元の料理まであり、お客様に何をお勧めすべきか迷っていたので、そのウェイターにお勧めを聞いてみたところ、確信に満ちた声で「地元で取れた香草を使ったシンプルな地元のパスタがお勧めだ、見た目はこんな感じで...」と話し始めます。観光地のレストランのウェイターでしたら一番高い料理を進めてきそうですが、全くそのような気配はなく、「そんなものよりこっちの方が絶対にうまい」と言わんばかりの雰囲気。それではとそのパスタを注文したところ、それが抜群においしい。更に、ワインを頼むときにも私が指定したものではなく「今日数本入った地元のこのワインがうまいから」と進めてきます。銘柄だけは知っている物でしたので、ハズレることはないだろうとオーダーしたところ、これがお客様も感動されるほどの大当たり。 観光地のレストランの外国人ウェイターにお勧めをゆだねることは賭けとも感じましたが、このウェイターのお勧めを頼んでみようという気持ちが上回った結果です。ただそれは私が判断したのではなく、そのウェイターが私にそうさせたのでしょう。陽気で口がうまいという感じでもなくごく普通に話すウェイターで、ノリがいいから踊らされて注文したわけでもなく、ただ彼が伝えてきた(勧めてきた)ことに偽りがなさそうと感じたからオーダーしたのだと。  

 先日、社会学者の宮台真司さんがyou tubeでオーストリア出身の哲学者、マルティン・ブーバーについて語られていました。ブーバーは「ひとは世界にたいして二つのことなった態度をとる。それにもとづいて世界は二つとなる」といい、「二つの世界のうち、一つは〈われ〉‐〈なんじ〉の世界であり、もう一つが〈われ〉‐〈それ〉の世界である。世界は、単に人間の経験の対象となるときには〈われ〉‐〈それ〉という根源語に属し、これに反して関係の世界は、もうひとつの根源語、〈われ〉‐〈なんじ〉によって作り出される」と言っているそうです。〈それ〉=itで、そのitにあたる人(モノ)は交換可能、それに対して〈なんじ〉=youで、交換不可能な人(モノ)と理解できると解説しています。これを聞いた時、私は〈われ〉‐〈なんじ〉の「関係の世界」に生きたいと思い続けてきたと気づかされました。  

 先程のウェイターと私のやり取りを振り返りますと、彼〈われ〉は私を〈なんじ〉youとして対応した、「関係の世界」での出来事であって、結果とても幸せな時間を過ごせましたが、もしお勧めがそこまで口に合わなくても、だまされたなどとは微塵も感じなかったと思います。もし、彼が私を〈それ〉itとした単に経験の対象としての振る舞いであれば、結果は違ったかもしれません。 

 関わる方々を〈なんじ〉youとして「関係の世界」を生きることで、私も相手も幸せになる。私の大好きな寅さんは全力で「関係の世界」に生きた人だったようです。

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